牧神の午後の日記

オタク系の話題です

この世界の片隅に こうの史代

 舞台となるのは昭和18年〜21年にかけての呉。主人公は広島で生まれ、呉に嫁いだすず。この舞台はもう、最後は呉の空襲と広島のピカドンしかないってのは解っているんです。もう予定調和なくらいに。でも、多分この話はそんな悲劇を描くことが主目的ではなく、ごくごく普通の人たちの生活、ある意味ばかばかしいまでの日常とそこにたゆとう大切な思いの数々。
 勿論、日常のあちこちに悲劇は口を開けて待っていて、主人公達もその例外ではありません。特に最終巻、昭和20年4月以降にそれは顕著となり、呉の空襲では目の前で姪を失い、主人公の右手首から先をもって行かれます。夫とのちょっとした行き違い、なによりも姪を目の前で失ってしまった責任感から、実家の広島に戻ろうと決めた矢先、今度は広島の原爆により妹以外の家族も失うことになります。それでも、絶望に駆られながらも敗戦を受け入れ、そして生き続ける主人公と周りの人たちののたくましさ、支え合う力強さに救われる思いになります。
 多分、昔も今も人の本質はそれほど変わっていない。責任放棄的な言い方をするならば、いつでも民衆は「エライヒト」の決めたこと、あるいは世の流れというものに巻き込まれるしかないのかもしれません。でも、その中でも精いっぱいに生きる人たちに乾杯、です。ラスト近く、原爆に破壊された広島で主人公が語る「生きとろうが 死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって」「うちしか持っとらん それの記憶がある」「うちはその記憶の器として この世界に在り続ける」という言葉が読後には重くそして明るく響いてきます。そして、最後に増える新しい家族が一筋の光として差し込んでくるように感じました。

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